2023年1月18日水曜日

YMOの思い出

 


 高橋幸宏さんが亡くなられました。翌朝一番に訃報を目にして、心に穴があいたような寂しさを感じました。

ファンと言えるほどユキヒロさんのことを知っているわけではないけれど、イエロー・マジック・オーケストラのアルバム「ソリッド・ステート・サバイバー」、その中でも特に「Rydeen」が私の人生を大きく変えたことは間違いありません。

YMOのことを初めて知ったのは、彼らが日本で一般的に知られるようになる前のことでした。私が小学6年生だったか中学1年生だったかの年末に、NHKでYMOの海外でのライブが放送されていたのです。たまたま点いていたテレビにそれが映って、私は「わー、なんだ、この音楽は…」と見入ってしまったことを覚えています。夕方の居間の様子や自分がテレビの前に座りこんで見ていたこと、台所(昭和の家だからキッチンという感じではないのです)で母が何か料理をしていたこと、居間には私しかいなかったことなども鮮明に思い出せます。それほどインパクトのある音楽だったのです。

 
 
これじゃなかったかと思うのだけれど…

もちろん後で知ったことですが、YMOは最初に海外で評価を受けて日本に逆輸入された形のバンドです。だからこのNHKの放送があった頃もおそらく一部の洋楽通の人たちしかYMOを知らなかったのではないかと思いますが、私は子供だったから知らなかっただけなのかもしれません。ただ、「Rydeen」が日本で爆発的にヒットするのはまだ先のことでした。

その頃に日本ですでに「ソリッド・ステート・サバイバー」が発売されていたのかどうかはわかりませんが、当時はLP盤が3000円以上もした時代で、小学生の私が買えるはずもなく、YMOに限らず聴きたい音楽はラジオでかかるのをじっと待つしかなかったのです。それをラジカセでテープに録音して、繰り返し聴いていました。その光景を的確に表現した文章が島田雅彦の「君が異端だった頃」の中にあったので、少し長いけれど引用します。

その頃、音楽に触れるもっとも手頃な手段はFM放送の聴取だった。青少年は親にラジカセを買ってもらい、ほとんどそれと添い寝するような日々を送っていた。二週間分の番組表と聞きどころを紹介したFM雑誌も三誌あった。新譜は君の小遣いではなかなか手を出せないので、話題の演奏のオンエアを心待ちにし、カセットテープをセットし、録音ボタンに指をかけ、解説者の能書きが終わるのを待つ。」

今では音楽配信サービスで無料で聴ける音楽に、私たちはこれほどの労力を費やしていたのです。うまく録音ボタンが押せなくて、イントロの途中からになってしまうこともたびたび。

こうして私は「ソリッド・ステート・サバイバー」全曲をテープに収め、毎日毎日聴いていました。その頃はやはりユキヒロさん作曲の「Rydeen」が一番好きでした。「テクノポリス」や「アブソルート・エゴ・ダンス」も俗にいうノリのいい曲で好きだったけれど、アルバム全体のよさが分かるようになったのはもう少し大人になってからでした。YMOの曲は当時はまだ巨大だったシンセサイザーを使った音が新しかったのだけれど、私は「Rydeen」のドラムのパートが特に好きで、本気でドラムセットが欲しいと思っていました。だからメンバーの中でもユキヒロさんに憧れていました。

その後、中学生、高校生になって、YMOの流れからクラフトワークを知り、ジョイ・ディビジョンやニューオーダーを知り、私の人生に最も影響を及ぼしたデペッシュ・モードを知り、と私は洋楽一辺倒になっていくのですが、YMOはポップ路線に向かってしまった感じで、私の関心は薄れていきました。けれど、「ソリッド・ステート・サバイバー」だけはいつの時代も私のプレイリストに必ず入っています。今もSpotifyでお気に入りの曲をシャッフルして聴いていると、よくRydeenやテクノポリスがかかります。

あの冬の日の夕方に偶然YMOに出会わなかったら、その後ずっと聞き続けることになる数々のバンドや音楽を知ることはなかったかもしれず、私の人生は味気ないものになっていたに違いありません。

ご冥福をお祈りいたします。

 
 
 2:10のところが好き
 

3 件のコメント:

  1. 私も昨日その訃報を目にしてびっくりしました。
    YMOの音楽はあの頃すごい衝撃でしたよね。小学校高学年だったか中学校かの頃に兄が 聖子ちゃんと、ベイシティローラーズとYMOのレコードを聞いていて それで知ったのですが、その頃ピアノを習っていた私は坂本さんの操るシンセサイザーに何?これ。。。って心奪われて、それから高校の頃バンドでシンセサイザーを担当したほどでした。笑 確か中学の頃にRydeenの曲を 体育の創作ダンスに取り入れた記憶もあります。
    やっぱり 好きな音楽は色褪せないね。宝を残してくれたことに感謝。
    カセット、録音大変だったよね。懐かしい。

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    1. Ziggyさんのお兄さんはレコードをお持ちだったのですね。リッチですねー。あの頃、EP盤でも700円ぐらいじゃなかったかなぁ。買えなかったからよく覚えてます。ふふふ。お兄さん、お姉さんがいる友達はちょっと大人な音楽のことをよく知っていました。当時はオフコースとかね。
      シンセサイザーもYMOの初期の頃は巨大なコンピューターみたいな感じだったけれど、それから何年かしてローランドなんとかやYamaha DX7のような普通サイズのキーボードが出てきて、欲しかったなぁ。もちろん買えませんでしたけど。上の温泉の動画でも、ユキヒロさんが「なんかちょっと小さいなぁ」と言っていて、坂本教授がキーボードをまじまじと見ているところで笑っちゃいました。
      これからもYMOの曲を聴くたびに、こうした一連のことを思い出すのでしょうね。

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    2. 坂本教授。。。懐かしい響き!笑

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