2023年1月30日月曜日

晴耕雨読

 この時期は通常はよく晴れて、空気もパリッとしていて、寒いけれど好きな季節のひとつです。ところが、今年はいつになく雨が多いような気がします。低温で植物が休眠している間にしておかなければならない庭仕事がいろいろとあるのに、晴天日が長く続かないのでなかなか手をつけられずにいます。

先週末は珍しく晴れて気温も比較的穏やかだったので、ずっと気になっていたことに手をつけました。家の裏口の横には玉石を敷いた場所があるのだけれど、石の下に黒い不織布を敷いていたにもかかわらず、横から侵入してきた芝が土の中に根を張って、不織布を突き抜けてわさわさと茂ってしまったのです。これは本当に手強い芝で、つながった根が全体に張り巡らされているので、夏の間は抜いても抜いても次々と生えてくる上に、玉石が邪魔で根こそぎ取り除くことができずにいました。これはもう、一旦枯れて根が弱くなる冬まで待つしかないとそのままにしておいたのだけれど、もう見るのも厭でした。お見せするのも恥ずかしい…

いざ作業を開始して、まずは玉石を取り除いて…と思いきや、これが結構深いところまで埋まっています。土を手持ちシャベルで掘り返して、最初は小石をひとつひとつ拾っていたのだけれど、とんでもなく時間がかかります。そこでなにか篩(ふるい)になるものはないかと家の中を探したら、100均で売っているようなプラスチックのカゴがあったので、土ごとカゴに入れてふるい、石を選別しました。そうしながら芝を引き抜いて根絶やしにして、丸二日かけてようやくまっさらな空間になりました。

こんな狭い場所に二日間もかかるなんて。そして、これが終わりではなく、不織布を敷いて玉石を戻さないといけません。できれば玉石は洗いたいし。

そして月曜日は雨。作業は一時休止。

月末なので、今月読んだ本の話でも。

今月はたったの3冊しか読んでいません。それも1冊(シリーズ)はマンガです。

なぜこんなに少ないのかというと、我慢して我慢してなんとか読み終えようと頑張った本を途中で放棄してしまったからです。ローラ・インガルス・ワイルダー(「大草原の小さな家」のローラ)の伝記で、書評を読んだ時にどうしても読みたくてフルプライスで買った本なのに、とにかく長くて、あまり必要じゃない情報も多いような気がして、挫折しました。半分ぐらいしか読んでいないけれど、ローラの人生は「大草原の小さな家」の幸せな家族というイメージからは程遠いものだったようです。またいつか再挑戦します。

1月に読んだ本:

町田康「私の文学史 なぜ俺はこんな人間になったのか?」

NHKのラジオ韓国語講座を聴いていた時に、他の番組に町田康の文学講座があって、ちょっと聴いてみたら面白かったので、それが本になったものを電子書籍で買いました。ご本人には失礼かもしれないけれど、町田康さんは私に似ているところがあるような気がするのです。だから「なぜ俺はこんな人間になったのか?」をぜひ知りたいと思ったのです。文学講座だから、文学を通しての経験や文学への思いなどがつづられているのだけれど、「自意識という殻をやぶって、正直に書く」ことが最高の文学への道だということなのだと受け取りました。

水樹和佳子 「イティハーサ」

小学生の頃に読んでいた懐かしい少女漫画が無料で読めるサイト(合法、広告表示あり)があると知り、その他の漫画を見てみたら、このイティハーサがありました。読み始めて思い出したのだけれど、これは昔、確か妹が持っていた少女漫画誌で途中の1話だけ読んだことがあったような。1話だけだったので詳しい内容はよく分かりませんでしたが、神話のような印象的な話で、何か恐ろし気であったことを覚えていました。今回全話通して読んでみたら、なんとも深い話で驚きました。善と悪を描いた物語なのだけれど、一般的な善と悪の概念を覆すような、それでいて納得してしまう、壮大なドラマが描かれています。若い頃にこれを読んでいたら、理解できたかどうかわかりません。

北杜夫 「どくとるマンボウ 青春の山」

なぜ今、北杜夫かというと、前出の町田康の本に、北杜夫を読んでいた、とあったからです。とはいえ、買わずに読める本はなかなか見つからず、なんとか見つけたのがこの本でした。太平洋戦争終盤に、山と昆虫が好きだったことから長野県の旧松本高校(信州大学の前身)に入学し、本土決戦で来るべき死について悶々としながら山登りをした日々のことや、ヒマラヤ登山のこと、父・斎藤茂吉のことや、上高地の宿のおかみさんに「偉い人ではない」と言われた母のことなどを綴ったエッセイ集です。

2023年1月25日水曜日

信州のおやき

 


娘のところに行くと、毎回なにか料理のリクエストがあって、今回は「肉じゃが」と「おやき」を作ってほしいと頼まれました。H君はいつも「ポテトコロッケ(ひき肉入り)」です。

肉じゃがとコロッケはもう何十年も作り続けているから材料さえあればササッと作れるけれど、「おやき」 となるとそう簡単にはいきません。

「おやき」は長野県の人ならば誰でも知っている郷土料理で、野菜のみそ炒めや餡子などを小麦粉で作った生地で包んで焼き蒸しにしたものです。私が子供だった頃は家庭で作るのが普通でしたが、今はおやき専門店や、スーパーなどでで買うほうが一般的かもしれません。長野県内でも地域によって皮に違いがあって、パンのようにふっくらしたものや、囲炉裏の灰の中で焼いたもの、焼かずに蒸しただけのものなど、いろいろなタイプがあります。我が家のおやきは昔から焼き蒸しにしたものです。

中に詰める具もいろいろで、私が子供の頃に祖母が作っていたおやきはニラや青菜やナスや餡子がほとんどだった気がしますが、お店で買うようになってからはそこに野菜ミックス(キャベツ、にんじん、玉ねぎ)や野沢菜や切り干し大根やカボチャなどが加わりました。今はクリームチーズ入りのおやきなどもあるそうです。

うちの子供たちも昔から長野に行くと必ずおやきを食べていて、特に野菜ミックスとナスがお気に入りでした。

そんなわけで、今回、娘におやきを作ってほしいと頼まれたのだけれど、おやきは皮を作るのがヒジョーに難しいのです。おやきの皮の美味しさと、生地の扱いにくさは比例します。つまり、美味しい皮を作るには水分をたっぷり含んだベタベタな生地にしなければならないのです。私が覚えている限りでも、祖母のおやきの生地は液状といってもいいくらいに緩く、手のひらにサラダ油を塗ってから生地を載せて具を包んでいました。それを油を敷いたフライパンに即座に置いて、両面をきつね色になるまで焼いたものを蒸し器で蒸していました。(祖母は長野県出身じゃないので、それが本当のおやきの作り方だったのかどうかはわかりません。でも美味しいおやきでした)

以前、祖母の生地を真似しておやきを作ってみたことがありましたが、とてもおやきとは呼べないシロモノが出来上がって、それ以来なかなか挑戦できないでいました。でもそれはまだインターネットが普及する前のこと。今ではレシピを検索すればおやきの作り方だって簡単に探せます。そこで、ハワイに行く前にいろいろなレシピを参考にしておやきを作ってみました。

それでも、どのレシピも生地は扱いやすいけれど完成したおやきの皮がお団子のように硬いのです。そこで、液状とまではいかなくてもかなりベタベタな生地にして、打ち粉で対処することにしました。マットやめん棒にはこびりつくし、打ち粉であちこちが真っ白になるけれど、できたのですよ、薄くて柔らかい皮が…。やったー。

というわけで、ハワイでもこの生地でおやきを作りました。娘は大喜びで、8個作ったおやきを2-3日かけて大切に食べていました。

上の写真は昨日作ったものです。具は青菜(冷凍のマスタードグリーン)とネギの味噌炒め。懐かしい味がしました。写真だけ見ると、買ってきたおやきのようにも見えるぞ。


2023年1月18日水曜日

YMOの思い出

 


 高橋幸宏さんが亡くなられました。翌朝一番に訃報を目にして、心に穴があいたような寂しさを感じました。

ファンと言えるほどユキヒロさんのことを知っているわけではないけれど、イエロー・マジック・オーケストラのアルバム「ソリッド・ステート・サバイバー」、その中でも特に「Rydeen」が私の人生を大きく変えたことは間違いありません。

YMOのことを初めて知ったのは、彼らが日本で一般的に知られるようになる前のことでした。私が小学6年生だったか中学1年生だったかの年末に、NHKでYMOの海外でのライブが放送されていたのです。たまたま点いていたテレビにそれが映って、私は「わー、なんだ、この音楽は…」と見入ってしまったことを覚えています。夕方の居間の様子や自分がテレビの前に座りこんで見ていたこと、台所(昭和の家だからキッチンという感じではないのです)で母が何か料理をしていたこと、居間には私しかいなかったことなども鮮明に思い出せます。それほどインパクトのある音楽だったのです。

 
 
これじゃなかったかと思うのだけれど…

もちろん後で知ったことですが、YMOは最初に海外で評価を受けて日本に逆輸入された形のバンドです。だからこのNHKの放送があった頃もおそらく一部の洋楽通の人たちしかYMOを知らなかったのではないかと思いますが、私は子供だったから知らなかっただけなのかもしれません。ただ、「Rydeen」が日本で爆発的にヒットするのはまだ先のことでした。

その頃に日本ですでに「ソリッド・ステート・サバイバー」が発売されていたのかどうかはわかりませんが、当時はLP盤が3000円以上もした時代で、小学生の私が買えるはずもなく、YMOに限らず聴きたい音楽はラジオでかかるのをじっと待つしかなかったのです。それをラジカセでテープに録音して、繰り返し聴いていました。その光景を的確に表現した文章が島田雅彦の「君が異端だった頃」の中にあったので、少し長いけれど引用します。

その頃、音楽に触れるもっとも手頃な手段はFM放送の聴取だった。青少年は親にラジカセを買ってもらい、ほとんどそれと添い寝するような日々を送っていた。二週間分の番組表と聞きどころを紹介したFM雑誌も三誌あった。新譜は君の小遣いではなかなか手を出せないので、話題の演奏のオンエアを心待ちにし、カセットテープをセットし、録音ボタンに指をかけ、解説者の能書きが終わるのを待つ。」

今では音楽配信サービスで無料で聴ける音楽に、私たちはこれほどの労力を費やしていたのです。うまく録音ボタンが押せなくて、イントロの途中からになってしまうこともたびたび。

こうして私は「ソリッド・ステート・サバイバー」全曲をテープに収め、毎日毎日聴いていました。その頃はやはりユキヒロさん作曲の「Rydeen」が一番好きでした。「テクノポリス」や「アブソルート・エゴ・ダンス」も俗にいうノリのいい曲で好きだったけれど、アルバム全体のよさが分かるようになったのはもう少し大人になってからでした。YMOの曲は当時はまだ巨大だったシンセサイザーを使った音が新しかったのだけれど、私は「Rydeen」のドラムのパートが特に好きで、本気でドラムセットが欲しいと思っていました。だからメンバーの中でもユキヒロさんに憧れていました。

その後、中学生、高校生になって、YMOの流れからクラフトワークを知り、ジョイ・ディビジョンやニューオーダーを知り、私の人生に最も影響を及ぼしたデペッシュ・モードを知り、と私は洋楽一辺倒になっていくのですが、YMOはポップ路線に向かってしまった感じで、私の関心は薄れていきました。けれど、「ソリッド・ステート・サバイバー」だけはいつの時代も私のプレイリストに必ず入っています。今もSpotifyでお気に入りの曲をシャッフルして聴いていると、よくRydeenやテクノポリスがかかります。

あの冬の日の夕方に偶然YMOに出会わなかったら、その後ずっと聞き続けることになる数々のバンドや音楽を知ることはなかったかもしれず、私の人生は味気ないものになっていたに違いありません。

ご冥福をお祈りいたします。

 
 
 2:10のところが好き
 

2023年1月13日金曜日

昭和レトロな風景

今年はいろいろと始めたいことがあるのだけれど、のほほんと過ごしているうちにもう半月近くが過ぎてしまいました。年々、時間が過ぎるのが早くなっていくように感じます。

最近読んだ記事によるとそれには理由があって、毎日同じことの繰り返しをしていると、脳が目新しいことがない日々をひとまとめにしてしまうため、例えば1週間同じ日課で過ごしていると、脳はそれを1日と解釈してしまうのだそうです。そうならないためには、知らないことを学習したり、新しい体験をして、脳が一日一日を識別できるようにすることが大切なんだとか。なるほどー、なにか目新しいことをしないと、あっという間に人生が終わってしまいそうですね。

一方、人生を謳歌しているのはわが娘とH君です。昨日から日本に2週間の旅行に出かけています。 毎年娘は1月の自分の誕生日のあたりに旅行に出かけるのが恒例となっていて、過去にはカリブ海の島やシンガポールやメキシコや日本などに旅行に行っていました。さすがに近年はコロナ禍もあって旅行どころではなかったのだけれど、ようやく日本も海外からの旅行者を受け入れるようになったので、さっそく出かけることにしたようです。JRのレイルパスも購入して、京都・奈良・大阪にも行くそうで、なんだか修学旅行みたいだな、と思ったのでした。あー、私も日本に行きたいなー。

それはさて置き、先日、急に思い立って、切り干し大根を作りました。

日本にいた頃は大根の皮があまりにもキレイで、捨ててしまうのがもったいなかったから、細く刻んで切り干し大根にしていたのだけれど、アメリカで手に入る大根の皮はあまりキレイじゃないのでいつも捨てていたのです。ところが珍しくキレイな皮の大根が手に入ったので、これはこれは、とさっそく切り干し大根にしました。読んで字のごとく、切って干すだけです。それもお皿にペーパータオルを敷いた上に刻んだ大根の皮をバラバラに広げて、その辺に放置するだけ。ただし、夏は湿度が高く乾きにくい上にカビが生える危険もあるので、空気が乾燥した冬にしかできません。何日かそのまま置いて干からびて怪しげな見た目になったら完成です。(手前は皮ですが、奥は大根の細切りです)


ダイニングテーブルの端の方は陽が当たるので乾燥しやすいし、ビタミンDも増えるんじゃないか(わかりませんが)と思って置いておいたら、夫が「それは何だ、なんで冷蔵庫に入れないでそんなところに置いているのか、カバーはしないのか」と厭そうに言います。カバーしたら乾燥しないでしょう、と私が言うと、虫が来たらどうするのか(クモぐらいしかいませんよ)、ホコリが付くんじゃないか、そんなものは絶対に食べないぞ、と不安がっています。こんな貴重なものをアナタにあげるつもりなど、最初からありません、と心の中で思いながら、「はい、はい」と聞き流したのでした。

すると、数日後の朝、私が起きてくると、テーブルの上がこんなことになっていました。


おやおやー、なんでしょう、この昭和レトロな風景は!

さては夫がどこかで見つけてきたのかと思いきや、息子がアジア系のお店で買ってきたのだとか。息子も実は何もカバーされていないのが厭だったのだそうです。

我が家の男衆は意外と繊細ですな。

水で戻してジャブジャブ洗ってから調理するんですけどね。

2023年1月5日木曜日

走り初めとホノルルマラソン

今年のお正月三が日は異様に暖かく、気温が20℃近くまで上がりました。そこで元日からさっそく走り初めに出かけました。とは言うものの、実はホノルルマラソン以来、一度も走っていなかったのでした。

新しいシューズを履いていつものスタート地点から走り始めたのだけれど、なんだか体が重くて思うように進みません。それもそのはず、20日間も走らなかっただけじゃなく、ハワイから戻ってきたら3㎏も体重が増えていたのです。フルマラソンを走ったのに…ですよ。いったいどんな食生活をしていたのでしょうか。

走り初めは息も絶え絶えに5kmでギブアップ。まるでフルマラソンの終盤コースを再現しているようでした。2-3週間走らなかっただけで、こんなに苦しくなってしまうんですねぇ。

と、ホノルルマラソンのことを思い出したので、回顧録を書いておきましょう。

今回のホノルルマラソンは娘の彼氏のH君と息子の彼女のSちゃんと一緒に参加しました。H君は前年ほとんどトレーニングもしないで挑戦したフルマラソンのリベンジと称して、今回はしっかりトレーニングを積んで、3時間15分切りを目指していました。私とSちゃんは初めてのフルマラソンなので、目標は完走です。

朝5時のスタート時間に間に合うように娘の家を出て、まだ暗い道を15分ほど歩いてスタート地点のアラモアナ公園に着きました。すでにスタート前の道は参加ランナーで埋め尽くされています。まだスタートまで30分以上あり、Sちゃんがトイレに行くというので私も付いていくと、ずらりと並ぶ簡易トイレの前にはいくつもの長蛇の列ができています。なるべく短い列に並んだものの、なかなか進まずに時間が心配になってきました。スタート地点に戻ろうとしたときには4時50分を過ぎていて、スタート地点ははるか遠くにあります。5時になって花火が上がり、先頭グループがスタートした時点でも、私たちはまだスタートの列に合流できていなくて、本当は自己申告タイムに従って色分けされた待機場所が決まっているのだけれど、それがどこなのかももう分からず、とにかく入れる場所に入って、流されるままに動いてスタートを切りました。先頭から13分ぐらい遅れて。

フルマラソンだから最初から飛ばすようなことはせず、ゆーっくりSちゃんと走っていたのだけれど、5kmぐらいのところでSちゃんがまたトイレに行くというので、私は先にゆっくり走って、途中でSちゃんが追い付かなかったら10kmのところで待っていることにしました。10km地点で一旦止まって待っていると、1分もしないうちにSちゃんが来たので、また一緒に走りだしました。10kmを過ぎるとダイヤモンド・ヘッドの上り坂が待っています。ここで無理をすると後が続かないと思って、かなりスピードを落として坂を上がると、海が目の前に広がり、水平線の彼方から太陽が昇ってきました。日の出の写真を撮っている人もたくさんいました。

しばらくは平らな道やゆるい上り坂が続いたのだけれど、Sちゃんがここでダウン。さっきの坂で消耗してしまったようで、もう走れないと言います。「Jさん、先にいってください」と言うので、ゆっくり走るから追いつけたら来てね、と言い残して先に進みましたが、最後まで会えず仕舞いでした。このあたりでトップのエリート招待選手がすでに戻ってきていました。

それから幹線道路に入ると、折り返してきたランナーが対向車線を走っています。どこかでH君に会うかもと探しながら走りましたが、見つからず。でもそうしていたおかげで苦しさも退屈さも感じずにあっという間に20kmを過ぎました。そのあたりに日本のテレビ局(TBS)のカメラマンの車が伴走していて、日本の芸能人が走っていたと後で知りました。折り返した後に日本人の女性アナウンサーと思しき人が日本人のランナーの人たちと写真を撮っていたのを見かけました。

と、まぁ、30kmぐらいまではそんな感じで楽しく走っていたのだけれど、30kmを過ぎたら途端に足が上がらなくなってきて、給水所で止まっては水やスポーツドリンクを飲んで、また走り出すものの、もう走っているのか歩いているのかよく分からないような速度になってきて、ここは本当につらかった。そこに追い打ちをかけるように最後の3kmぐらいのところに上り坂があって、もう何も考えられませんでした。その後は下り坂をおりるとすぐにゴールの公園が待っています。ところが、公園に入ってもフィニッシュラインがなかなか見えないのです。普段だったらなんとも思わない距離が長いのなんの。最終ストレッチに入って、沿道の声援が聞こえてきたので、きっとどこかにうちの娘がいて、写真を撮っているにちがいないと、無理に笑顔を作って、最後は両手を上げてゴールしたのに、なんと、娘も、すでにゴールしたH君もそこにはいなかったという(駐車場の関係で車を移動しなければならなかったんだとか。↓は買った写真)

 


ゴールしたあとはメダルを受け取ってからしばらく一人で芝生の上に座り込んでいました。娘から電話があって合流したあと、ブースでTシャツとココナッツウォーターとバナナとマラサダ(ハワイ風ドーナツ)をいただきました(今回はビールはなし、笑)。

私がゴールしてから1時間半ほどしてSちゃんがゴールしました。スマホで追跡していたので、Sちゃんが最終ストレッチに入ってきた時に沿道から声をかけると、半泣き状態でフィニッシュラインを越えていました。辛さと嬉しさの両方の涙です。

H君は目標タイムの3時間15分には届かなかったものの、3時間21分でゴールしました。本人は満足だと言っています。今年の目標はサブ・スリーかな。

こうして私の初フルマラソンは幕を閉じました。最後の10kmほどは本当に苦しかったけれど、終わったらあの苦しさの半分ぐらいは忘れてしまって、また今年も走ろうと思っているから困ったものです。42kmって想像もできない距離だったけれど、やればできるものですねー。

さぁ、早く余分な体重を落として、今年も走るぞー!


2023年1月1日日曜日

謹賀新年

明けましておめでとうございます。

今年も拙ブログをよろしくお願いいたします。

 年末に友人Mさんの家族と鍋パーティをしました。毎年、クリスマスから年末にかけてMさんの息子のK君がMさんの家に来るので、例年はクリスマスを一緒に祝っていたのだけれど、今年は大寒波があってクリスマスには来られなかったため、後日、うちの息子やSちゃんも一緒にランチに出かけたのです。内陸の州に住んでいるK君はシーフード、それもカニを食べたいというので、数あるシーフードレストランの中からよさそうなお店を選んで出かけました。生牡蠣に続いて、かなりの量の蒸しシーフード(カニやエビや牡蠣、ムール貝、蛤などの貝類)の盛り合わせをみんなでシェアして、K君だけは特別に追加で1ポンド(450gぐらい)の蒸しカニを注文しました。食べ終えたK君は幸せそうに「カニは毎日食べても絶対に飽きない」と言い、ご満悦の様子。

そこでうちの息子が冷凍じゃないカニを仕入れてきて、後日、海鮮鍋と鶏鍋を作りました。鶏鍋はシーフードを食べないK君のガールフレンド用に。

カニやエビや牡蠣や鶏からいい出汁がでて、美味しいお鍋になりました。K君はカニの半分以上を一人で食べてまたご満悦。K君も最初は遠慮していたのだけれど、K君にとってはなかなか食べられないカニだから、たくさん食べてほしかったのです。

そして、残った鍋の汁は大晦日の年越しそばになり、元旦のお雑煮になりました。お雑煮の頃には野菜がくったくたで、かすかに原形をとどめる程度でしたが、お味は最高でした。見た目はちょっと残念。


さて、新しい年の幕開けです。

今年一年の出来事をきちんと綴っていくことを目標のひとつにしたいと思います。あとは、健康で、シンプルなことに喜びを見出せる一年になりますように。