2025年7月13日日曜日

朝活

毎日、暑いです。

日が昇ると気温がどんどん上がるので、朝のランニングはなるべく早い時間に出かけたいのだけれど、起きてすぐには走れないから、朝の5時に起きたとしても、コーヒー一杯をゆっくり飲んで、着がえたり日焼け止めを塗ったりしているうちに、出かけるのは6時過ぎになってしまいます。6時半ごろにはもう日が差してくるから暑いのなんの。なるべく日陰の道を選んで走るのだけれど、夏のランニングはきついですね~。それでも10月にハーフ、11月にフルマラソンの予定が入っているので走らないわけにはいきません。

私のランニングは一日置きなので、走らない朝の時間は読書に充てています。というのも、このところ600頁-700頁もある小説を図書館で立て続けに借りてしまって、それをそれぞれ3週間という期限内で読むためには一日に最低でも30数頁を読まなければならず、忙しくて全く読めない日もあることを考えたら50頁ぐらいは読んでおく必要があるからなのです。たいして人気のない本であればさらに3週間延長できることもあるのだけれど、あいにく今回借りた本は予約がぎっしり入っていて延長できませんでした。

では、前回以降に読んだ本について少し書いておきましょう

黒い雨 井伏鱒二

「黒い雨」を読んでみようと思ったきっかけが何だったのかは忘れてしまった。本棚にあったから手に取ってみただけだったのか、原爆関連の何かを読んでこの本のことを思い出したのか。いずれにしても、長い間ベッドサイドのスタンドに置いたままになっていたのは確かだ。

「黒い雨」は高校一年の夏休みの課題図書だったように思う。夏休みに部活に行く電車の中で読んだという記憶があるからなのだが、実際の本の内容は広島の原爆のこと、誰かの結婚が破談になったこと、くらいしか覚えていなかった。黒い雨は原爆投下後に降った重油のような雨のことだが、主人公の姪がこの黒い雨をあびたことから原爆症の疑いをかけられて結婚が次々と破談になる。その疑いを晴らすために主人公は原爆投下後に書いた自分の日記を清書して、姪の縁談相手に渡すことにするのだが、その日記の内容が当時の惨状を物語っており、本人が経験したこと以外にも、知人や通りがかりの人達の話も織り込まれている。地獄絵のような状況下で、人の心が麻痺してしまったような描写もある。ちょうどこの本を読んでいる時に、数年前にアカデミー賞を受賞した映画「オッペンハイマー」を観た。原爆投下後、マンハッタンプロジェクトのリーダーであったオッペンハイマー博士が狂乱したような観衆に称賛されるシーンがあった。つい先ほどまで読んでいた「黒い雨」の中には、赤ちゃんをかばって丸焦げになった母親の姿や、全身にやけどを負いながらも水を求めて彷徨う人々の描写がある。今でもアメリカや東アジアの一部の国の人の中には、原爆は日本の自業自得だという人たちがいる。虚しさを感じざるをえない。


Demon Copperhead - Barbara Kingsolver(デーモン・コッパ―ヘッド / バーバラ・キングソルヴァ―)

バーバラ・キングソルヴァ―は好きな作家のひとりで、今までにも「ポイズンウッド・バイブル」や「The Lacuna」やエッセイ集などを読んでいる。この「デーモン・コッパ―ヘッド」はタイトルからもうすうす分かるように、ディケンズの「デイヴィッド・コパフィールド」へのオマージュだという。アパラチアの山の中で母親と暮らすデーモン少年は、母親がドラッグ更生施設に入院するたびに里親のもとに送られ、そうした里親には優遇されず過酷な労働を強いられる。母親が更生施設を出て再婚すると、その再婚相手からは虐待を受ける。母親が薬品の乱用で亡くなると、父方の祖母を探し出し、祖母の知り合いのフットボールコーチの家に預けられ、高校ではフットボールのスター選手に成長するが、再起不能な怪我を負い、フットボールの夢をあきらめざるを得なくなる。怪我の治療で処方された痛み止めの薬を乱用するようになり、最愛のガールフレンドをドラッグで失う。アメリカの貧困やドラッグといった社会問題がデーモン少年を通して描かれている。最後は少し明るい未来が垣間見られるのがせめてもの救いである。デーモン少年が目指した場所は、私が住む町の海だった!


The City and its Uncertain Walls - Haruki Murakami(街とその不確かな壁 / 村上春樹)

待っていた本がようやく図書館で借りられた。「街とその不確かな壁」というタイトルを見たときに「これは、『世界の終わり』のことだろうか?」と思い、「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」の続編なのかと思っていた。ところが実際は「世界の終わり」が「街とその不確かな壁」を基にした場所だったらしい。「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」を読んだのは20代前半のころだったと思う。一角獣がいて、住人は影を持たず、一角獣の頭蓋骨から記憶を読む…という不思議な世界に魅了された。その世界が「街とその不確かな壁」で再現されている。村上春樹の小説は、主人公がいつもきちんとし過ぎていて、少女が姿を消してしまって虚無感があるような描写でも、主人公は淡々として日々を過ごしている。これはもしかしたら作者自身がストイック過ぎて、あまり人間の弱さを知らないんじゃないかという気もする。別の小説だが、カフカ少年のような15歳は現実にいるだろうか。それといつも比べてしまうのは、宮本輝の描く少年や青年だ。人間として共感できるのは、こちらのように思う。なにはともあれ、ふたたび「世界の終わり」の世界に引き戻されて、楽しく読んだ。機会があれば、日本語でも読んでみたい。


青い壺 有吉佐和子

つい先頃、有吉佐和子の「青い壺」がベストセラーリストの1位になったというニュースを見た。1977年に出版された昭和の小説が新しい小説を抜いて1位になるとはどういうことなのかと興味を抱いて、電子書籍で購入してみた。有吉佐和子の本はこれまでにも何冊か読んだことがある。20代の頃に「海暗」や「華岡青洲の妻」「非色」「恍惚の人」などを読み、ある時は人から「複合汚染」のことを聞いて読んでみた。今年に入ってからは「女二人のニューギニア」というエッセイ/紀行文を読み、最近知人からもらった文庫本の中にも彼女の小説があり、これから読む本として今もナイトスタンドの上に置いてある。「青い壺」は、ある陶芸家が焼いた殊のほか風情のある青磁の壺がいろいろな理由から様々な人の手に渡り、その壺を手にした人々の人間模様を描いた小説である。特に優れた小説という印象は受けなかったが、昭和はこういう時代だったなと思い出すことがたくさんあった。若い人たちが読むと新鮮に映るのかもしれない。以前Netflixで「阿修羅のごとく」を見たときに、やはり忘れていた昭和のいろいろなことを思い出した。新しいドラマなのに時代背景がしっかりしていると思った。


Things in Nature Merely Grow Yiyun Li(イーユン・リー)

2025年上半期に出版された本でNPR(米国公共ラジオ放送)のスタッフが薦める本の中にこの本があった。二人の息子を自死で亡くした作家のエッセイというような紹介だったと思う。最初は気付かなかったが、イーユン・リーは昨年の夏に読んだ小説「The Book of Goose」の作者だった。彼女は長男を16歳で、次男を19歳で亡くしている。どちらも自死だったという。どれほどの悲しみを経験したことか。私には想像もできない。しかし本書の中で彼女は子供たちの死を冷静に見つめている。彼女の考えや物の見方は一般的ではないかもしれないが、その冷静さの裏に計り知れない悲しみがあるのだろう。タイトルのThings in Nature Merely Grow(自然のものはただただ育つだけ)には、子供たちを一個人として敬う作者の姿が表れているように思う。


 

2025年7月6日日曜日

戯言


 ある日突然、こんなツイートが私のフィードに入ってきました。ツイート主の方は存じ上げませんが、何か妙に共感したことを思い出しました。まぁ、私は「ジジイ」ではないけど、似たようなものです。

若者のロック離れと言うけれど、アメリカではもう社会全体がロック離れみたいなものです。テレビで放送されるアワード番組なんて、出演者はカントリーかヒップホップの人達ばかり。おまけ程度に一組ぐらいロックバンドが出てきても、これ、ロック?という感じで、嘆かわしい。いつぞやのグラミー賞では、最優秀ロックアルバムだったか、ロック系の賞は授賞式では放送していなかったくらいですから。昔のロックを知っている我々世代しかロックを聴かないというのは、本当なんでしょうね。

今の若者はカントリーやヒップホップを聴いて、何を感じるのかなぁ。私はこのどちらのジャンルからも、ロックに感じるようなドキドキ感やワクワク感を得ることができません。もっと言うと、胸が「くぅーっ」となる感じ。昔から私はこの表現を使っているけれど、これを分かってくれた人は未だかつて一人もいません。まぁ、音楽に関しては私は独りぼっちで、深い話のできる知人は一人もいないんだけど、それはそれでいいのです。変に音楽の話をしても、相手に合わせるのは簡単だけど、自分の中では「違うんだよなぁ」と落胆してしまうから。でも、スクリーンやモニターの向こう側には、私と似たような感覚の持ち主が少なからずいて、「そう、そう、そうなのよ」と画面に向かって頷いているのでした。

それでも、最近はトレンドが変わってきているらしく、アメリカではティーンエイジャーがガレージバンドを始める風潮が戻ってきているんだそうですよ。どこかで読んだ話では、Gen ZがCreed とNickelbackを聴いているともいうし。そういえば、このあいだ息子がCreedを聴いていて、おや?っと思ったことがありました。その時に息子とそんな話をしていて、「Nickelbackはすごく嫌われていた時期があったよね」と私が言ったら、それは、みんなが嫌いだというから他の人も後追いという形でみんなに合わせるために嫌いになった、という説があるんですって。Nickelbackにとっては大迷惑な話ですよね。でも、それってロック離れにも通じる話かもしれません。みんながカントリーを聴いているから、別に好きじゃないけど私も聴いておこう…というような。まぁ、流行りというのはそういうものだけど。

とは言うものの、私も新しい音楽はほとんど聴いていません。もうあの「くぅーっ」という感じがないんだな、新しい音楽には。2000年代が限界かも知れません。Greta van Fleetは最初聴いたときに、へー、かっこいいね、と思ったけれど、レッド・ツェッペリンやジャニス・ジョップリンの二番煎じみたいでちょっと物足りない。たぶん聴かないけど、新しいガレージバンドの活躍を楽しみにしています。私は昔の音楽だけでいいや。

昨日あたりから私のSNSフィードはOasisの再結成コンサートの投稿であふれています。「リアム、やったね。やればできるじゃん」というのが私の感想(すみません、上から目線で)。大人になったんだね。おそらくOasisの歴史の中で一番のコンサートだったんじゃないかと思います。セットリストも素晴らしい。

誰かが書いていたんだけど、ギャラガー兄弟の仲たがいの一因は、兄のノエルのフラストレーションにあって、それは弟リアムが類まれな才能をアルコールやドラッグで無駄にしていることを我慢できなかったからだと。昔のOasis時代にリアムは明らかにアルコールかドラッグかの影響下でステージに立ち、ステージ上で兄弟げんかを始めて、リアムが姿を消してノエルが残りの全曲を歌うことになったり、というハプニングが絶えなかったから、それも一理あるなという気がします。ノエルは口は悪いけど、実はすごく真面目で音楽に真摯に向き合っている人なんじゃないかという気がするから、リアムに対してそういう感情を抱いていたとしても不思議じゃないし、だからこそ今回のステージでのリアムの姿はノエルにとって感慨深いものだったことでしょう。

私がよく読んでいる音楽ブログの主さんは、Oasisを聴くことをGuilty Pleasure(言うのがちょっと恥ずかしいような、人に知られたくない楽しみ)と言っていたけれど、堂々と好きと言っていいくらいにいいステージでしたよ。私にもGuilty Pleasure的なバンドがいくつかあるんだけど、それはまた別の機会に。

そういえば、同じ頃にオジー・オズボーンのファイナル・コンサートがあった模様で、こちらに参加したミュージシャンも錚々たる面々。まぁ、私はオジーもブラック・サバスも聴かないけれど、ロックもまだまだ捨てたものじゃないのかもしれませんねー。

と、まぁ、Oasisの映像を見ていたら、いろんな考えが頭の中に浮かんできて、戯言を述べてみた次第です。 あしからず。


2025年6月15日日曜日

アジサイと長芋と父の日の料理

  

庭のアジサイが満開になりました。

今年の花はいつになく青いような… そういう品種なのか、土が酸性に傾いているのか。 

このところずっと雨の日が続いていて、日本の梅雨のようなお天気です。それが幸いしたのか、例年はほとんど咲かない裏庭のガクアジサイが大きな花を咲かせました。



アジサイは日本原産の植物だから、やはり梅雨のような気候が合っているのでしょうね。皮肉なことに、このアジサイはこれまでにないほど元気なのに、その後ろの常緑樹(うちの敷地内)はお隣の庭の塩害で瀕死の状態です。よい日陰を作ってくれるありがたい木なのになぁ。

庭の畑もほぼ夏野菜に移行して、1の箱はトマト、バジル、モロヘイヤ:2の箱はニラ(ジャングル化してる)、三つ葉(ほぼ終わり)、ミニトマト:3の箱は葉ネギ、ピーマン(パプリカじゃなくて日本のピーマン)、つるありインゲン、枝豆(予定):4の箱はナス2種類(加茂ナスと普通の長ナス)、キュウリ(もちろん日本の)、ケール(ほぼ終わり)

一番日当たりのいいフェンス脇の露地にゴーヤ

他にも袋栽培のジャガイモ(そろそろ収穫)、サツマイモ、ズッキーニ、ゴボウ、カボチャ、ホースラディッシュ、スイカなどがあります。プランターではパセリ、小松菜、時なし小カブ、ツルムラサキ、スイスチャード、シシトウ、四川トウガラシが育っています。

…そして、今年初栽培+いちばん期待しているのが、長芋です(↓)


アジア系スーパーで買ってきた20㎝ぐらいの長芋を4つに切って芽出しをしたものを、80㎝ぐらいの高さのある米袋に土を入れて植えました(もう一袋あります)。今のところ順調ですが、どうなるのかなぁ。長芋はお店で買うと高いから、自家栽培ができたら嬉しいのだけれど。

さて、今日は父の日ですね。

夫は今日は用事があって出かけているのだけれど、金曜日の夕方に娘がオーダーしてくれた食材が届き、昨夜、一足早く父の日のディナーをいただきました。

ジャーン、


 ケイジャン・シーフード・ボイル

シーフード(タラバガニ、エビ、ムール貝それぞれ個別に)、じゃがいも、とうもろこし、アンドゥイユソーセージ、レモンといった食材だけじゃなく、ケイジャンスパイス、ハーブバター、パセリまで、まるでスーパーに買い物に行ったように届きました。家にあったものを使ったのは、ガーリックとタマネギとオリーブオイルだけ。ありがたいことです。

優に5-6人分はあったと思いますが、夫婦ふたりでたらふく食べて、半分以上なくなりました。美味しかったー。

リングイーネも届いたので、今夜は残りのシーフードでペスカトーレにしましょう♪


2025年5月29日木曜日

お味噌の蔵出しとフォカッチャ・アート

昨年の10月頃に仕込んだお味噌を蔵出ししました。

今回は、柔らかく茹でた大豆を熱いうちにジップロック袋に入れて、袋の中で大豆を潰し、冷めてから塩切りした米麹を混ぜ込んで、しっかりと空気を抜いて冷暗所に置いておきました。なるべく空気に触れさせないことでカビの発生を防ぐためです。袋の中で大豆を潰したから、豆の形がそのまま残っているものもあるけれど、家で使うだけだから問題なし。家のキッチン工事が長引いて、普通より長く熟成させてしまったけれど、それはそれで味に深みが増して美味しくなったんじゃないかと…

前回作った黒豆のお味噌がまだ残っているので、そちらを使い終えるまで冷蔵庫の奥に待機していてもらいましょう。

さらに、母の日に娘がWhole Foodsからいろいろな食品を届けてくれたのだけれど、その中にお味噌があったのです。White Misoと書いてあるから「白みそ」なのかと思ったら、「made with traditional Shinshu fermentation method (信州の昔ながらの発酵方法で製造)」と書いてあります。いや、信州味噌は白味噌のように甘くないのに…と思ったんだけど、これは果たして信州味噌なのか、白味噌なのか??? まだ開封していないので、開けてみてのお楽しみ♪ しかし、こんなにたくさんお味噌があって、どうしよう。次のバッチを作ろうかと思ったけれど、しばらく待つことにします。

そして過日、前々から作ってみたいと思っていたフォカッチャ・アートに挑戦しました。フォカッチャ生地はなんでもよかったので、なるべく気泡の多そうなものをネットで検索して、本当は一晩冷蔵庫で発酵させた方がよかったのだけれど、時間がなかったので室温での方法にしました。

発酵を待つ間に野菜を準備します。紫タマネギやパプリカは定番。茎や葉の部分は庭から採ってきたケールやルッコラやパセリやニラを使いました。一度生地の上に野菜を置いてしまったら、生地から野菜を剥がすことは難しいので、ここは慎重に考えて配置しないといけません。…と言いながら、かなりテキトーに置いたんですけどね。

オーブンに入れて焼くこと約30分。タマネギやパプリカの焼ける香ばしい匂いがしてきました。

うーん、焼かないほうがきれいだったな。でも、焼かないと食べられないし。あー、ジレンマ。茎はもう少し水分のあるアスパラガスのほうがよかったかもしれません。葉はバジルかな。

焼きあがったフォカッチャは、しばらく愛でてから四角く切って、フレッシュモッツァレラとトマトとバジルソース(バジルの葉がなかったので)を挟んで食べました。 野菜のいろんな味がして美味でした。

2025年5月13日火曜日

ユッカヌヒーとエンドウ豆

 先日、沖縄出身の知人に戸籍謄本の翻訳を頼まれました。

戸籍の翻訳も簡単になりましたよねー。戸籍の書式自体が簡単になったということもあるけれど、 翻訳用のテンプレートも探せばあちこちにあって、名前や生年月日などの変数を記入すれば完成してしまうのだから。昔の戸籍は文章形式で、何月何日に何某により届け出、といった感じで、日付も旧式の壱日(1日)や弐拾参日(23日)のような表記でしたものね。

その預かった書類が入っていたクリアファイルがこちら。

家族の呼び方や沖縄の風習などが書いてあって、面白く読ませていただきました。


へー、5月には「ユッカヌヒー」っていう祝日があるんだ!沖縄らしい響きだなぁ。…ん?ちょっと待って。「ユッカヌヒー」ってもしかして「4日の日(よっかのひ)」? なんか、いいなぁ、こういうの。

 

 アメリカっぽい感じもしなくもない。アメリカにも文字通り「7月4日」という日がありますから。正式には「独立記念日(Independence Day)」なのだけれど、「Happy Independence Day! 」より「Happy Fourth of July!」と言うほうが圧倒的に多いような気がします。

昔どこかにも書いた覚えがあるけれど、息子がまだ小学生だった頃、私が「日本にも7月4日(Fourth of July)ってあるのかな!?」と訊いたら、息子は呆れ顔で「ないよ、だってFourth of Julyはアメリカの祝日だもん」と答えたのでした。そんなこと訊くなんて信じられないといった様相で。そこで私は「へー、じゃぁ日本では7月3日の次の日は7月5日になっちゃうんだね」と、したり顔で言ったのでした。ヒドイ母親。

さてさて、ちょっと畑のことも書いておきましょう。

今は夏野菜への移行期で、畑にはケール、ルッコラ、ニラ、エンドウ豆ぐらいしかないのだけれど、今年は実エンドウがたくさん採れました。


 去年は袋栽培で苗が大きく育たず、数えるほどしか収穫できなかったので、幾つかを完熟させて種用に取っておいたのです。それを昨年の秋に路地植えにしたら、春にはぐんぐん成長して、たくさん実をつけました。最初は絹さやとして若いサヤを摘んでいたのだけれど、ちょっと見ない間に実がどんどん太って、立派な実エンドウになりました。


 実エンドウとして初めて収穫したのはこのくらい。


 お豆がかわいく並んでいます。


茹でたて。

これは日本の「うすいえんどう」という種類で、少しホクホクした食感で、甘みがあります。エンドウ豆は収穫してすぐに食べないと美味しさがどんどん失われてしまうのだそうです。だからアメリカでは冷凍のグリーンピースしか売っていないのかな。絹さや(Snow peas)は店頭で見かけるけれど、新鮮なグリーンピースは未だに見たことがありません。自家栽培の特権ですね。

実エンドウは収穫時期を逃すとどんどん堅くなってしまうので、毎日のように収穫して茹でています。私は毎日おいしく食べているけれど、家族はもう手を出しません。

エンドウもそろそろ終わりなので、残りは来年の種用に残しておいて、エンドウの後作にはトマトとバジルとモロヘイヤを植える予定です。

2025年4月28日月曜日

イベント盛りだくさんな週末

 


 今週末はいろんな出来事がありました。

金曜日の午前中に畑仕事をしていたら、突然Sちゃんから電話があって、「急なんですけど…」とその日の午後にイチゴ狩りに行きませんかとお誘いを受けたのでした。「わーい、行きます、行きます」と二つ返事で応え、畑仕事は放り出して出かけました。Sちゃんは少し前にお勤め先が変わって、我が家が通り道ではなくなってしまったので、久しぶりに会いました。

そういえば去年もSちゃんがイチゴ狩りに誘ってくれて、郊外の広~いイチゴ農園に出かけたのだけれど、今年はなんと家から15分ぐらいで行ける、住宅地に挟まれたような場所にある農園でした。昨年はSちゃんが通う日本人教会の方々とご一緒して、それを機に、私はクリスチャンでもないのにいろいろなイベントを通して多くの方々と交流させていただいたのでした。今年のイチゴ狩りにも、もうすっかり仲良しになった教会の人達が何人か参加して、わいわいガヤガヤとおしゃべりに夢中になりながら、真っ赤で艶々なイチゴを摘んでいたら、あっという間にカゴが一杯になりました。味見をしてもいいというので食べてはみたものの、やはり大味で、日本のイチゴのような甘さは期待できませんでした。ただ、市販のイチゴよりはずっと美味しくて、香りや風味が最高でした。香りがいいから生食するならアイスクリームと一緒に食べようと思って、帰りに買って帰ったのだけれど、翌朝の朝食時にイチゴを食べてみたら前日よりずっと甘くなっていました。おかしいなぁ、イチゴは追熟しないはずなのに。私の気のせいかと思ったら、Sちゃんも同じことを言っていました。



そして土曜日は、またまたSちゃんとウベ(ube)フェスティバルなるイベントに出かけました。私ったら、今の今(これを書いている今)までウベは紅芋のことだと思っていました!ubeって日本語で何というんだろうと調べたら、なんとubeはサツマイモじゃなくてヤマイモの一種なんですって!ひとつお勉強になりました。

Sちゃんはナースだからフィリピン系アメリカ人のお友達が多くて、フィリピン系の人しか知らないような情報が入ってくるらしいのです。興味半分で出かけてみたら、物凄い賑わいで、ほぼ全てがフィリピン系の人達でした。会場にはウベを使ったお菓子のベンダーやクラフト系のベンダーが所狭しと並び、一部のお菓子のベンダーには長蛇の列ができていました。Sちゃんと一通り見てまわり、せっかくだから何かお菓子を買って帰ろうと思って目に留まったのがドーナツ屋さん。なんでも、このイベントのために遠くから出張販売に来た有名なお店なのだそうです。買い求める人の列は会場の外まで続いていました。フェスティバルの開始時間からまだ1時間ほどしかたっていないのに、もうすでに商品が売り切れているベンダーもあったので、とりあえずここに並んでおくことにしました。こんなにたくさんの人が並んでいるんだから、美味しくないはずはないよね、と。一時間ほど並んでようやく順番がきましたが、ドーナツ1個のお値段が驚きの…$7.50!クラクラ~。$1を¥140で換算しても¥1050ですよ。日本にいたら、これでランチが食べられそう。このドーナツ1個の値段でミスドのドーナツいくつ買えるかな。そしてミスドのほうが絶対に美味しいはず。さらに、私ったら何を血迷ったか、4つも買ってしまったのですよ。ただのバカですね。

それでも、こんな見た目のわりには、生地がドーナツというよりケーキのようにフワフワで、中のクリームも甘さ控えめでなかなか美味しかったので、良しとしましょう。


そして、昨夜、日曜の夜は、 日本の航空自衛隊中央音楽隊と米空軍Heritage of America Bandの合同コンサートに出かけました。これもSちゃんがどこかで調べてきてくれた無料のコンサートで、近くのハイスクールの講堂で開催されたものです。毎年、隣接する市でこの時期に「Tatoo Festival」というイベントが開催されていて、私はずっといわゆる肌に入れるタトゥーのイベントだと勘違いしていたのだけれど、Tatooとは軍楽隊のパフォーマンスのことだったんですね。そのイベントに今年は航空自衛隊の中央音楽隊が参加していたそうで、そちらは有料だったものの、昨夜は小さな会場で無料のコンサートが開かれました。無料コンサートとは言え、侮ることなかれ。素晴らしいコンサートでした。最初は米空軍のブラスバンドが映画音楽や、テレビ番組の主題歌(?)やジャズのようなサウンドの曲を演奏し、まずまずでした。というのも、なんだか上手なのか、そうでもないのか、ちょっとよく分からない感じで、高校の上手なブラスバンドのレベルという気もしないでもないといった具合で。そして次に、自衛隊中央音楽隊が航空自衛隊の公式の曲を演奏すると、うわー! 今の言葉で言うと「レべチ」でした。続いて、スーパーマリオブラザーズ。こちらはノリノリ。指揮者も観客のほうを振り返って笑顔を見せたりして、お茶目です。次に、今回のTatooのために準備したという、この州のローカルな曲を披露し、最後は「Wings to Fly」として紹介された曲。日本人の多くは学校で歌ったことがあるはずというような英語の紹介で、何の曲だろうと思ったら、「翼をください」でした。これは懐かしさもあって、かなり感動しました。続いて、両楽団の混合で、オリンピックのテーマ曲、レナード・バーンスタインの曲を演奏し、最後の最後にStars and Stripes Forever(星条旗よ永遠なれ)で盛り上がっておしまい。とっても楽しいコンサートでした。

今週はSちゃんとラブラブな週末でした。



2025年4月21日月曜日

最近読んだ本

 もう4月だというのに、今年は読書がちっともはかどりません。特に日本語の本が…

私の読書は、お昼過ぎのひと時に英語の本を、就寝前にベッドの中で日本語の本を読むのが普通で、だいたい2冊を並行して読んでいます。この形式になったのは、夜は疲れすぎていて脳があまり働かないため、英語の本の内容が頭に入ってこないからなのだけれど、最近は日本語を読んでいても数ページで寝落ちしてしまうので、一冊読み終えるまでに数週間、場合によっては1ヶ月以上もかかるのです。そして、せっかく読んだ本の内容をすぐに忘れてしまうのも困ったものです。

Red Sorghum(紅い高粱)- Mo Yan (莫言)

昨年読んだ余華の「兄弟」「活きる」からの流れで、中国人で初めてノーベル文学賞を受賞した莫言の代表作のひとつを読んだ。語り手は、自分の父と祖父母とその周りの人々が中国のある農村で体験した日中戦争の出来事を語る。広大な高粱畑が生活のすべてであり、愛も戦争も死もこの高粱畑で繰り広げられる。日中戦争の物語ということで、日本軍の残虐行為が延々と描かれているものと思って読み始めたけれど、これは反日文学ではなかった。もちろん日本軍の非情な行為のシーンも多々あるものの、それと同じく革命軍や八路軍の同様のシーンもあり、全編を通して惨たらしい描写が絶えない。戦闘シーンと家族や人とのつながりが交互に語られ、その中で「死」が普遍的に描写されている。非常にダークな小説ではあるけれど、中国の歴史の一部として興味深く読んだ。


土と兵隊・麦と兵隊 火野葦平

こちらは日本兵の視野から日中戦争を描いた作品。土と兵隊は1937年の杭州湾上陸を弟への手紙として記しており、麦と兵隊はその後の徐州会戦の進行を記録したもの。ちょうどRed Sorghumの時代と重なることと(場所は違うけれど)、その他に個人的な興味があってこの本を手にした。というのは、私の祖父が徐州会戦を経験しているから。小学生の頃、祖母が家計簿に大事に挟んでいた新聞記事を見せてくれた。その紙面には若い祖父の写真と、その横に「行方不明」という文字があった。祖母は「戦争の時に…」と言っていたから、私は太平洋戦争のことだとずっと思っていたのだけれど、何年か前に実家の押し入れを整理していた時にこの家計簿と新聞の切り抜きが見つかって、大人になってこの記事を読んでみたら、徐州会戦の時のことだった。火野葦平が所属していた部隊と祖父の部隊は徐州に至るまで別の進路をとったようだから全く同じ経験をしたわけではないだろうけれど、似たような体験であったかもしれない。読みながら、私の知らない若かりし日の祖父がそこにいるような気がした。きれいごとばかりではない描写を同様に体験したかもしれない祖父はどう感じたのだろうか。ちなみに、行方不明になったはずの祖父は、太平洋戦争後、生存率数パーセントと言われるニューギニアから帰還している。

 


The Zone of Interest(関心領域)- Martin Amis(マーティン・エイミス/北田絵理子訳)

地球をぐるっと廻って、こちらは第二次世界大戦中のドイツ第三帝国。これは先述の2冊とは関係なく、この本を元にした映画が日本のアマゾンプライムで見られるというような話をどこかで聞いて、そういえば数年前にアカデミー賞を受賞した映画だったなと思い出した。アメリカではまだ有料でしか見られないけれど、その前に原作を読んでおこうと思い、図書館アプリで電子書籍を借りた。The Zone of Interest(関心領域)とは、アウシュビッツ強制収容所に勤務するナチス軍人らの居住区を指す。小説の主な語り手は3人。ナチス将校のトムソン、アウシュビッツ強制収容所の司令官ドール、ユダヤ人でありながらユダヤ人から没収した貴重品や装飾品の整理をするソンダ―コマンドのシュムル。司令官の妻ハンナを巡り、三人の男たちの人生と心理が変わっていく様子を描く。ナチスが収容所で行っていることを異常だと思わない異常さ。私が戦争文学を読む理由は、決して戦争というテーマが好きなわけではなく、戦時下での人々の心理がどういうものなのかを知りたいということがあるのだと思う。お国のために命を捧げるということ、残虐行為を正当化する集団心理など。いくら読んでも、平和ボケした自分には理解しがたい。

 


A Crack in Creation(クリスパー CRISPR 究極の遺伝子編集技術の発見)- Jennifer Doudna/ Samuel Sternberg

フィクションが続いたので、ノンフィクションを一冊。複雑極まりなかったゲノム編集技術をCRISPR Cas9という最新技術で一新してノーベル賞を受賞した作者が、発見に至るまでの道のり、未来への展望、そして危機感と危機管理について語った著作。前半の発見に至るまでの話はかなり科学的な内容ではあるものの、一般向けに書かれた本なので、そこまで難しくはない。私はゲノム編集の技術的なことなど何も知らなかったから、バクテリアに感染するウイルスがいることや、そのウイルスに対するバクテリアの免疫がウイルスのDNAの一部を切り取って上書きすること、そしてそのバクテリアの行動がゲノム編集技術につながったことなどを面白く読んだ。ゲノム編集に対する私の考えは決してポジティブではない。単純思考で言うと、私が見てきた中で、植物の中には交配するものとしない物があって、自然界の中で交配しないのにはきっと何らかの理由、交配してはならない理由があるからだと思っている。動物でも、ライオンとトラを交配することはできるけれど、その子供には繁殖力がないという。その子孫を残すと自然界にとってよくないからだろうか。この本が出版されたのは10年近く前のことで、著者はCRISPRを使えば、絶滅した動物を復活させることができると未来への展望として述べているが、つい先日、絶滅したダイアウルフ(ダイアオオカミ)をCRISPRで復活させたというニュースが流れた。マンモスを復活させるプロジェクトも進行中だという。植物の世界ではすでに様々なゲノム編集が行われていて、ラウンドアップに耐性のある大豆をモンサントが開発したことは有名だ。こうしたゲノム編集に関しては、自然な進化がスピードアップしただけだから安心だというのが一般的な考えらしい。またゲノム編集の展望として、遺伝性の病気を後天的に遺伝子治療で治すことが期待されている。鎌形状貧血やハンティントン病などがその候補になるという。私も個人的にハンティントン病に苦しむ人を知っていて、藁にもすがりたい思いというのはわかるので、ゲノム編集を一概に否定することもできないのだけれど、著者が危惧するのはそうした後天的な編集ではなく、胚芽を操作する生殖細胞系列の編集だという。良いとこ取りをした、いわゆるデザイナーベビーの誕生につながりかねないことや、編集した遺伝子が後世に伝わることの不透明な安全性に警鐘を鳴らす。ふと、カズオ・イシグロの「クララとお日さま」の子供達が編集された子供達だったなと思った。著者はそうしたゲノム編集の問題を提起、議論するシンポジウムを立ち上げている。自然の摂理というものは私たち人間が解明できないほど緻密にできていると私は思っていて、その一部を人がいじることで、何か大きな影響を引き起こすのではないかと心配になる。